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岡沢亮 contact: boiledend0320[@]gmail.com http://researchmap.jp/ryookazawa

『Call Me by Your Name』

『Call Me by Your Name(邦題:君の名前で僕を呼んで)』

映画開始二分後には、たとえこの後に続く物語がどんなに凡庸で退屈なものであったとしても、自分はこの画面をずっと観続けているだろうと確信させられる。ひとつひとつのカット、そこに映される街並、水面、自動車、太陽は素晴らしく美しい。俳優たちが完璧に煙草を吸う姿を目の当たりにし、世界中の凡百の映画で用いられている煙草を全て奪い取って彼らに献上しようと決意する。

世の中には、これならば完全な素人である自分が映画を撮っても必ずや面白くなるはずだと感じるような見事な脚本や、書き手はその一生を伏線の回収に費やそうとしているのかと思わせるような複雑な脚本がある。本作はそうではない。あるいは、小説(本作も原作は小説だという)や演劇や詩やCMなどの形式の方が良かったのではないかと感じる映画もあるが、本作はそうではない。物語の内容も十分に優れているかもしれないが、それでもやはり、映画という形式を選択することの意義と必然性に満ちている。

ラストシーン、表情が克明に映される人物の背後で、いつもの通り食卓が準備され食器の音が聴こえてくる演出の、なぜ自分が思いつかなかったのかと悔しく思う一方で、人生を何度繰り返しても頭の片隅にも浮かばないのだろうなと諦めもつくような、非凡さ。

 

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お前のママの口紅の色すべて、それと

高校生の頃『秒速5センチメートル』を観て「絵が綺麗」「大人になってからの主人公の男は恋人と向き合えない割とヤバいやつ」「絵が綺麗」「ラストシーンはまあそうなるだろう」「絵が綺麗」という感想を持ったのだが、当時ネットなどで感想を読むと「絵が綺麗」以外の感想はあまり共有できず混乱した。

『Big Sick』はパキスタン人男性のコメディアンと白人女性のカップルが色々な困難を乗り越える話。テンポも速くて面白いが、それぞれの小エピソード(コメディアンがIS関連の野次を飛ばされるとか)やギャグやウィットに満ちた一言が全て78-82点くらいの手堅いものばかりで、あまりにも安心して観ることができすぎてもう一つ。こちらとしては、もうちょっと嫌な気持ちになったり疲れたり退屈したりする準備はある。

ところで主演のKumail NanjianiはMean Tweetsで見事だった。↓02:45~から。

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『Lady Bird』は面白かった。

 

 

 

『身体的魅力の心理学』と社会学

The Psychology of Physical Attraction

The Psychology of Physical Attraction

The Psychology of Physical Attraction面白かった。人がいかなる身体的特性を魅力的だと感じるのか、それはなぜかについて、進化心理学社会心理学の既存研究をまとめて紹介してくれる。

思ったよりも、身体的特徴の好みの文化的社会的差異や、それに影響をあたえる文化的社会的要因を重視している印象。もう少しヒューマンユニバーサルがどうこうみたいな感じかと勝手に考えていた。これはだいたい10年前の本なので、その後の研究がどうなっているか知らないが。最後の章はルッキズムのような差別に対して、こうした研究による事実と偏見の解明を通じて対抗する可能性についても少し論じられている。

(進化)心理学者さえも社会構築主義的説明を真っ向から無意味だとして批判しているのではなく、いわゆる文化的社会的な要素を考慮しながら研究を進めている——メディアにおける理想的身体の表象の研究者も紹介されていた——ことについて、社会学者は真面目に受け止めて、自分が何をできるか考えた方がいいだろう。

なお、進化心理学の先行研究についても検討した上で、どのような人物に魅力を感じるかという問題について、権力との関係から論じた社会学研究として私が知っているのは、John Levi MatinのIs Power Sexy? 彼の論文のなかではそれほど引用されていないが。 

Is Power Sexy? on JSTOR

*論文電子公開* 岡沢亮「作品のわいせつ性に関する法的判断と非-法的知識」『ソシオロゴス』

岡沢亮,2016,「作品のわいせつ性に関する法的判断と非-法的知識——メイプルソープ事件判決を事例として」『ソシオロゴス』 (40):  95-110.

上記論文が電子公開されました。

http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~slogos/archive/40/okazawa2016.pdf

要旨は以下の通りです。

 法学研究では、作品のわいせつ性をいかにして判断すべきかが議論されてきた。そこでは、判例におけるわいせつ該当性基準の曖昧さなどが批判されてきた。しかし、いずれにせよ基準を具体的対象に適用する際には、基準自体には定められていない非-法的知識を用いざるを得ない。

 本稿では、2008年のメイプルソープ事件最高裁判決と、メイプルソープ作品を論じた批評家や作者自身のテクストを検討し、用いられる非-法的知識の差異によって、わいせつ性の有無の判断も異なりうることを示す。この作業を通じて、わいせつ性判断をめぐる規範的議論にとって、裁判官はどのような非‐法的知識を用いるべきかに関する考察が意義を持つことを示したい。

 特に、様々な非‐法的知識があるなかで、芸術の専門性や作品の鑑賞経験に基づいた知識を裁判官が参照すべきか否かが、考察に値するひとつのポイントとして示唆される。

 

エスノメソドロジーの立場からのテクスト資料の分析が、法学研究における規範的議論とどのような関係を持ちうるのかについて、論じたものです。

ご関心のある方は、ぜひお読みいただければ幸いです。

 

第90回日本社会学会発表「フィクションの分析可能性——テクスト資料と概念分析の社会学」

2017年11月4-5日に行われた第90回日本社会学会大会のテーマセッション「『概念分析の社会学の展開』(2)」にて、「フィクションの分析可能性——テクスト資料と概念分析の社会学」という題目のもと発表しました。発表原稿は以下です。

http://researchmap.jp/?action=cv_download_main&upload_id=146887

テクスト資料やフィクションの分析に関心があるが、概念分析の社会学を専門的に行っているわけではない社会学者を想定して、ひとつの分析の可能性を示そうと試みました。

2日目は「エスノメソドロジーと会話分析の半世紀(3)」を聴きに行きました。どの方の発表も面白かったのですが、特にTanya Stivers先生の発表が印象に残っています。クリニックにおいて医療者が障害を持つ子の親に遺伝子検査の結果を伝えるシークエンスを分析したもので、検査結果の確からしさについて医療者と親がどのように評価するのかに焦点が当てられていました。

質疑応答においては、遺伝子検査の結果という専門的知識をめぐる議論において、なぜ被検査者が医療者による評価に疑義を呈したりそれを格下げしたりできるのか、また遺伝子検査結果がわかることによって何らかの治療法が新たに発見できるわけではないにもかかわらず、なぜ親は検査を受け(させ)ようとするのか、といった質問がなされました。前者に関しては、親の側も様々な知識を収集していることが述べられました。後者に関しては、障害の原因を知ることが親にとってのある種の慰め(comfort)になっているのではないか、といった回答がなされていました。これらの回答は、それがEMCAによって行われるか否かは別にしても、さらなる研究の方向性を示唆していて刺激的でした*1

*1:英語を聞き間違えていなければよいのですが。

英語論文計画への逃避

博論が終わったらそれをもとに(といっても分析のコア部分以外は全面的に変えないといけないだろうが)英語論文を投稿しようかと思っている。法社会学系の雑誌に載せるのは文脈づけが非常に難しそうだという印象を抱いたので、文化社会学や芸術社会学や理論系の雑誌(PoeticsSociological TheoryTheory and society、Theory, Culture&Society、Cultural Sociologyなど)を考えている。会話分析の人はROLSIとかを目指すことができるのだろうけど、自分の場合はあまり現実的ではない。

案はふたつある。

ひとつは、判決文を素材に法専門家による作品のわいせつ/非わいせつの区別がいかにして行われているのかを明らかにするという課題を、LamontなどのSB(Symbolic Boundaries)やSVE(Sociology of Valuation and Evaluation)の議論に位置づけて行うこと。区別・境界画定・評価などの実践において用いられる常識的知識の役割への着目の重要性を主張する方向性。SBやSVEの議論は境界画定の恣意性やそれと関連する差別について関心を持つ研究が多いので、偏見とときに近しくなる常識的知識の扱いをめぐる議論は関心を持たれるかもしれない。事例として近いものを扱っているのはNicola Beiselで、論文を読む限り彼女はむしろわいせつ規制の目的論への関心が強いが、参考にはなるだろう。

もうひとつは、芸術の素人にも向けられた芸術批評における正当化実践の分析を、これまたSBやSVEの議論に結びつけつつ、芸術社会学における「ゲートキーパーとしての批評家」に関する議論にぶつけること。批評をめぐる社会学研究は批評が芸術作品やアーティストやジャンルの神聖化にどう影響したかとか、批評家は何に影響されて特定の対象を批評しているのかをめぐる計量研究が多いように見受けられるが、ボルタンスキーのOn Justificationなどを参照しながらそこでの正当化に着目している研究も少数ながらあった(全然引用されていないが)。この辺りを踏まえて何かできるかもしれない。

さすがにここまで研究の位置付けを変えれば、事例や分析の一部が同じでも、日本語の既発表論文との二重発表だとは言われないと思うのだが、そのあたりいまひとつルールがわからないところもある。

 

音楽の力

久しぶりにiPodを起動したところ意外にも懐かしい良い曲ばかり入っていた。大学に入りたての頃に赤井と中本と渋谷で行われたライブに行ったことを思い出す。見たところ10代の人々は自分たち以外に全くおらず周りの人々はみな正装で私たちは苦笑いを無理やり増幅させたような笑い方で場違いな状況に対処していた。

赤井はしばしば哲学や社会学の最近読んだ本に依拠しているかのように見せつつも実際には独自の概念と理屈に基づく社会理論をあまり面白いとは言えない冗談の彩りを添えながら語るという人物で——こうして文字にすると全く好感の持てない人物像が浮かび上がってきて驚いているところだ——彼と話すことは時折の苛立ちも含めてあるいはそれゆえに非常に楽しいものだった。彼はときおり社会学者がどうこう言っていて私は彼の話も社会学者の話も聞いていなかったがいつのまにかこうなっていて彼に笑われているかも知れない。

中本は無意味にラップに詳しく——有意味な仕方でラップに詳しいのがどういう場合なのか難しい問題だが——ある曲についてCDが廃盤なのでいつも動画サイトでそれを聴いているという話を私がしたところそのときは「それ知らないな」と言いつつ翌日には「俺持ってたわ」と言って貸してくれるなど趣きがあった。彼は映画もやたらと好きで、老人がより良い睡眠環境を求めて訪れたあげくフランスの長い映画なんかの上映直後(かつ寝起き)に「なにこの映画。つまらねぇ」(この感想自体はそれほど的外れでもないのが腹立たしい)などと割と大きな声で吐き捨てることでおなじみの名画座で偶然会ったこともある。

それで店に入った時にすごく苦手な音楽がかかっていることがありたまらず外に出てしまうことがあるが、そうしたときに音楽の持つ力を感じる。