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岡沢亮 contact: boiledend0320[@]gmail.com http://researchmap.jp/ryookazawa

チャタヌーガへの旅 2018 Chattanooga Trip

片道7時間半の道をKの車で行く。女性的な名前がついた凶悪なハリケーンから逃げる。ガソリンスタンドとファーストフード店しかない寂れた地域が続く。「ニューヨークはアメリカではない」という言葉をまたも思い出す。アッシュビルのレストランを気に入るがAは「偽物の南部 Fake South」だと言う。しかし、私にとって偽物の南部が本物よりいいのは確実だろう。

到着した宿には不可解にもその家の娘の写真集が置いてある。アッパーミドル風の家が立ち並ぶなかで、少し足を伸ばすと少し貧しい地域にたどり着く。格差のような抽象的な概念を私たちは容易に見ることができる。メキシコ料理屋がある。チェロキー族の言葉だというチャタヌーガの姉妹都市の一つには『遠野物語』で有名な遠野がある。「おれにはアメリカの歌声が聴こえる」 I  Hear (Native) America Singing. 

朝に酸味のあるコーヒーを飲んで具合が悪くなる。かつていわゆる「ハーフ」の男性芸人が言っていた硬度と体積に関する話を紹介する。4象限図式があり、最高と最低の二つの可能性があるギャンブルに参与することになる。日本のアニメを観る。そこでは一つの打撃で全ての敵が倒される。A&Aカップルはそれほど気に入らなかったことがわかる。マルキストのKは、次から次へと倒されるが怪物は出現し続けその原因は解決されないという物語の構成に、社会改良主義批判を見る。私は作中で怪物の存在が結果的に「ヒーロー」たちの雇用を生んでいることを指摘し、社会改良主義的な世界観が描かれているという見方に一定の賛意を示す。

次の日に訪れた中心市街地はあまりにも人工的で、Tがやっていたシムシティを思い起こさせる。中に何もないビルがたくさんあり、そのことは私たちを悲しくさせる。Aはこのくらいの寂れ具合は南部ではまだマシな方だと言う。橋を渡るとヴィーガンの店に着く。店員は白人に見えるA, A, Kの3人だけを同じグループとみなし、後ろにいたTと私は別のグループだとみなす。マイクロ・アグレッションではないかと笑いながら話す。バファローと名のつく料理は不味い蓋然性が非常に高いというアドバイスを食事後に受ける。

翌朝は彫刻を見て山に登る。アマゾンのような景色を見る。川に足を浸しながら、ウォルマートの万引き事情とアイビーリーグにおける大麻販売についてAとKから聞く。TがAGEDASHI DOFUを注文したところ豆腐サラダがやってくる。タパス形式のレストラン、新人ウェイター、アメリカのチップシステムについてみなが文句を述べる。彼らは文句を言うのがかなり得意である。Aがある人物について全くの冗談で「She's hot」といったところ、ガールフレンドのAが美しい軌道で叩く。YouTubeを周り、Tの努力の甲斐なく中国には良いハードコアバンドがないという結論に至る。私のラップの好みは全く同意を得られずに終わる。

車で戻る。期待せず入った店の麺が予想以上に美味しく驚く。野蛮な風習であるプロムについてKに尋ねる。あれは最悪だと言うものの、彼自身は非常に素敵なエピソードを披露してくれる。人の悪口を多く聞き少し言いつつ過ごす。家に着くと広東省の台風を知る。大雨の音が聞こえる。

 

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論文公刊: 岡沢亮「法専門家と芸術専門家の対立 」『年報社会学論集』31号

 新しい論文が公刊されました。

  •  岡沢亮,2018,「法専門家と芸術専門家の対立 ——テクスチュアル・トラベルと専門的知識」『年報社会学論集』(31): 1-11.[査読有]

作品のわいせつ性が争われた裁判であるいわゆる悪徳の栄え事件を事例として、公判において弁護側の芸術専門家証人の証言がいかに構成されていたのか、それに対して法専門家である検察官はそれらの証言をどのようにとらえたうえで反駁したのかを分析しました。

それによって、法的場面において法専門家と芸術専門家の対立が生じる仕組みを、彼らの実践に即して解明することを目指した論文です。

 

論文公刊: 岡沢亮「法廷の相互行為における素人の対抗」『法社会学』84号

新しい論文が公刊されました。

  • 岡沢亮, 2018, 「法廷の相互行為における素人の対抗——ある映画製作者の応答技法について」『法社会学』84: 183-202. [査読あり]

「法の素人はいかにして法専門家に対抗できるのか」という問いに対して、エスノメソドロジー・会話分析の立場から、刑事裁判の公判における検察官と被告人の相互行為を分析することによって、答えようとしたものです。

要約は以下の通りです。

 法廷における法専門家と法の素人の相互行為において、両者の語りの影響力の不均衡があることは、様々な研究において指摘されてきた。しかし、そうしたなかで法の素人がいかにして法専門家に対処し自らにとって有利な決定を獲得できるのかについては、十分な検討がなされてこなかった。

 そこで本稿は、法の素人が法廷の相互行為において用いる、法専門家に対抗し自らの立場を守るための方法の解明を目指す。そのために、作品のわいせつ性が争われ無罪判決が下された愛のコリーダ事件一審判決に至るまでの公判をとりあげ、エスノメソドロジーの立場から裁判官による質問と被告人の応答の連鎖を分析する。

 分析の結果、検察官の質問の不適切性を示すという方法が、素人による法専門家への対抗を可能にすることが明らかになった。分析事例において被告人は、「わかりません」という発話を用いて自らが法の素人であることを呈示しながら、検察官の質問の不適切性を示すことによって、質問に応答しないことを正当化するとともに無罪の主張を行うことが可能になっていた。

私は法社会学に関心を持ち自ら学んできたものの、それに関する専門的なトレーニングを学術機関で受ける機会はなかったので、このように法社会学の専門誌に掲載されたのは良かったかなと思います。

 

『Call Me by Your Name』

『Call Me by Your Name(邦題:君の名前で僕を呼んで)』

映画開始二分後には、たとえこの後に続く物語がどんなに凡庸で退屈なものであったとしても、自分はこの画面をずっと観続けているだろうと確信させられる。ひとつひとつのカット、そこに映される街並、水面、自動車、太陽は素晴らしく美しい。俳優たちが完璧に煙草を吸う姿を目の当たりにし、世界中の凡百の映画で用いられている煙草を全て奪い取って彼らに献上しようと決意する。

世の中には、これならば完全な素人である自分が映画を撮っても必ずや面白くなるはずだと感じるような見事な脚本や、書き手はその一生を伏線の回収に費やそうとしているのかと思わせるような複雑な脚本がある。本作はそうではない。あるいは、小説(本作も原作は小説だという)や演劇や詩やCMなどの形式の方が良かったのではないかと感じる映画もあるが、本作はそうではない。物語の内容も十分に優れているかもしれないが、それでもやはり、映画という形式を選択することの意義と必然性に満ちている。

ラストシーン、表情が克明に映される人物の背後で、いつもの通り食卓が準備され食器の音が聴こえてくる演出の、なぜ自分が思いつかなかったのかと悔しく思う一方で、人生を何度繰り返しても頭の片隅にも浮かばないのだろうなと諦めもつくような、非凡さ。

 

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お前のママの口紅の色すべて、それと

高校生の頃『秒速5センチメートル』を観て「絵が綺麗」「大人になってからの主人公の男は恋人と向き合えない割とヤバいやつ」「絵が綺麗」「ラストシーンはまあそうなるだろう」「絵が綺麗」という感想を持ったのだが、当時ネットなどで感想を読むと「絵が綺麗」以外の感想はあまり共有できず混乱した。

『Big Sick』はパキスタン人男性のコメディアンと白人女性のカップルが色々な困難を乗り越える話。テンポも速くて面白いが、それぞれの小エピソード(コメディアンがIS関連の野次を飛ばされるとか)やギャグやウィットに満ちた一言が全て78-82点くらいの手堅いものばかりで、あまりにも安心して観ることができすぎてもう一つ。こちらとしては、もうちょっと嫌な気持ちになったり疲れたり退屈したりする準備はある。

ところで主演のKumail NanjianiはMean Tweetsで見事だった。↓02:45~から。

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『Lady Bird』は面白かった。

 

 

 

『身体的魅力の心理学』と社会学

The Psychology of Physical Attraction

The Psychology of Physical Attraction

The Psychology of Physical Attraction面白かった。人がいかなる身体的特性を魅力的だと感じるのか、それはなぜかについて、進化心理学社会心理学の既存研究をまとめて紹介してくれる。

思ったよりも、身体的特徴の好みの文化的社会的差異や、それに影響をあたえる文化的社会的要因を重視している印象。もう少しヒューマンユニバーサルがどうこうみたいな感じかと勝手に考えていた。これはだいたい10年前の本なので、その後の研究がどうなっているか知らないが。最後の章はルッキズムのような差別に対して、こうした研究による事実と偏見の解明を通じて対抗する可能性についても少し論じられている。

(進化)心理学者さえも社会構築主義的説明を真っ向から無意味だとして批判しているのではなく、いわゆる文化的社会的な要素を考慮しながら研究を進めている——メディアにおける理想的身体の表象の研究者も紹介されていた——ことについて、社会学者は真面目に受け止めて、自分が何をできるか考えた方がいいだろう。

なお、進化心理学の先行研究についても検討した上で、どのような人物に魅力を感じるかという問題について、権力との関係から論じた社会学研究として私が知っているのは、John Levi MatinのIs Power Sexy? 彼の論文のなかではそれほど引用されていないが。 

Is Power Sexy? on JSTOR

*論文電子公開* 岡沢亮「作品のわいせつ性に関する法的判断と非-法的知識」『ソシオロゴス』

岡沢亮,2016,「作品のわいせつ性に関する法的判断と非-法的知識——メイプルソープ事件判決を事例として」『ソシオロゴス』 (40):  95-110.

上記論文が電子公開されました。

http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~slogos/archive/40/okazawa2016.pdf

要旨は以下の通りです。

 法学研究では、作品のわいせつ性をいかにして判断すべきかが議論されてきた。そこでは、判例におけるわいせつ該当性基準の曖昧さなどが批判されてきた。しかし、いずれにせよ基準を具体的対象に適用する際には、基準自体には定められていない非-法的知識を用いざるを得ない。

 本稿では、2008年のメイプルソープ事件最高裁判決と、メイプルソープ作品を論じた批評家や作者自身のテクストを検討し、用いられる非-法的知識の差異によって、わいせつ性の有無の判断も異なりうることを示す。この作業を通じて、わいせつ性判断をめぐる規範的議論にとって、裁判官はどのような非‐法的知識を用いるべきかに関する考察が意義を持つことを示したい。

 特に、様々な非‐法的知識があるなかで、芸術の専門性や作品の鑑賞経験に基づいた知識を裁判官が参照すべきか否かが、考察に値するひとつのポイントとして示唆される。

 

エスノメソドロジーの立場からのテクスト資料の分析が、法学研究における規範的議論とどのような関係を持ちうるのかについて、論じたものです。

ご関心のある方は、ぜひお読みいただければ幸いです。