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岡沢亮 contact: boiledend0320[@]gmail.com http://researchmap.jp/ryookazawa

岡沢亮「作品のわいせつ性に関する法的判断と非-法的知識」(in 『ソシオロゴス』40号)

自著論文

以下の論文が公刊されました。

・岡沢亮,2016,「作品のわいせつ性に関する法的判断と非-法的知識——メイプルソープ事件判決を事例として」『ソシオロゴス』(40): 95-110.[査読者: 加島卓・小宮友根]

判決文というテクスト資料を用いた法実践のエスノメソドロジー研究を志向し、かつ法学的な規範的議論への接続を試みたものです。至らない点も多々あるとは思いますが、お読みいただければ幸いです。

日本語要約は次の通りです。

法学研究では、作品のわいせつ性をいかにして判断すべきかが議論されてきた。そこでは、判例におけるわいせつ該当性基準の曖昧さなどが批判されてきた。しかし、いずれにせよ基準を具体的対象に適用する際には、基準自体には定められていない非-法的知識を用いざるを得ない。本稿では、2008年のメイプルソープ事件最高裁判決と、メイプルソープ作品を論じた批評家や作者自身のテクストを検討し、用いられる非-法的知識の差異によって、わいせつ性の有無の判断も異なりうることを示す。この作業を通じて、わいせつ性判断をめぐる規範的議論にとって、裁判官はどのような非-法的知識を用いるべきかに関する考察が意義を持つことを示したい。特に、様々な非-法的知識があるなかで、芸術の専門性や作品の鑑賞経験にもとづいた知識を裁判官が参照すべきか否かが、考察に値するひとつのポイントとして示唆される。

 草稿を検討していただいた皆様、そして何よりも査読を引き受けていただいた加島卓先生と小宮友根先生に心より感謝いたします。ありがとうございました。

 

閻連科『愉楽』と残雪『暗夜』

小説

最近、閻連科『愉楽』と残雪『暗夜』を読んだ。

前者は、レーニンの遺体を購入して記念館を建設し観光産業を興そうとする県長が、資金調達のために障害者ばかりが暮らす「受活村」から超絶技能を持った者を選抜し雑技団を作り、中国を行脚する。しかし、遺体購入の難航、障害者と「完全人」の対立、受活村の県からの退社の是非をめぐる論争などの問題が起こり不穏な展開を迎える。

ストーリー自体の面白さで勢いよく読み進められるし、それぞれの登場人物が行動を起こす際に依拠する論理には独特の迫力がある。ただ、私としては、少し寓話的に過ぎるようにも思われた。障害者と健常者の関係についての多少風刺的な物語にも読めるし、何よりも文化大革命が中国社会の人々の暮らしにもたらした影響を寓話的に書いていると言えるだろう。あまりにも上手く組み立てられ構造化された寓話という印象が拭えず、私が好みの小説を読んだ時の「なんだこれは」という驚きや困惑、消化しきれない感触がなかった。それは書き手の尋常でない技量を示しているのだとは思うが。

愉楽

愉楽

そこで、後者を改めて再読してみたのだが、物語の展開が不可解であり、個々人の行動原理もつかめないような、読者を困惑させる短編ばかりだ。特に素晴らしいのは、寓話的で教訓やメッセージを引き出せそうな雰囲気をこれでもかとばかりに醸し出しながらも、寓話として読むことは極めて難しいか、そう読むととても単純なものになってしまい全く面白くないところだ。寓話として読むことが拒絶されている感は、しばしば残雪を評する時に持ち出されるカフカとは大きく異なっているように思われる。

暗夜/戦争の悲しみ (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-6)

暗夜/戦争の悲しみ (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-6)

というかみんな小説を語る時に「カフカ的」とか「マジック・リアリズム」とか言いすぎなのではないかと7年くらい思っている。 

『ヤバい社会学』の著者のその後

『ヤバい社会学』というタイトルで邦訳もされた Gang Leader for a Day: A Rogue Sociologist Takes to the Streets の著者スディール・ヴェンカティッシュSudhir Venkateshだが、最近コロンビア大学のウェブサイトから消去されたようだ(名前だけは残っているが)。

Sudhir Venkatesh | Department of Sociology

2012年のNew York Timesに悪い評判を伝える記事が書かれていた。研究費の不正使用とか、調査・研究倫理の問題点とか。後者に関しては、実際にはフィールドノートを取っていなかったのに人々の語りを「引用」するなど不誠実な形で話を盛っていたのではないか、法的に疑わしい行為に加担していたのではないかといわれている。

http://www.nytimes.com/2012/12/02/nyregion/sudhir-venkatesh-columbias-gang-scholar-lives-on-the-edge.html?_r=1

ここで日本の社会学業界について何か言う気はない。

Gang Leader for a Day

Gang Leader for a Day

ヤバい社会学

ヤバい社会学

「査読のときに『グラウンデッド・セオリー』というフレーズに出くわしたら、リジェクトするしかないね」

 

Sociology Job Market Rumorsを読んでいて見つけた。

Grounded Theory « Sociology Job Market Rumors

As a peer reviewer, when I encounter the phrase "grounded theory" in your manuscript (even if you dutifully cite Glaser and Strauss 1967!), I have no choice but to recommend that your paper be rejected.

「査読してて『グラウンデッド・セオリー』というフレーズに出くわしたら、リジェクトしていくしかないね」といういささか乱暴な意見。

I'm a qualitative sociologist and I have to say any time I read an article and come across the use of this phrase, my stink meter starts to bling. One can do systematic inductive analysis and modified inductive approaches without the wrapper of "grounded theory." Just say exactly the process by which you analyzed and coded your data. Appealing to this term implies you followed some sort of standardized analytic process that can be universally applied.

そのあとで他の人が「『グラウンデッド・セオリー』とか言わなくても、システマティックで帰納的な分析はできる。とにかく分析とコーディングの手続きを正確に書け」と言っている。だいぶ穏当になった。

方法論(と言えるかどうか不明だが)の名前やその一般的な説明を書くだけで終わらせるのではなく、どのようにデータを扱い、どのような手続で分析したかを書くのが大事。これは全くその通りだと思う。

エスノメソドロジー」「概念分析」というフレーズに関しても同じですよね。

『概念分析の社会学2』加藤秀一論文について

研究メモ

2016/08/11本郷概念分析研究会『概念分析の社会学2』合評会レジュメ 

東京大学大学院 学際情報学府 岡沢亮 

◆対象論文

7章 加藤秀一「〈誤った生命〉とは誰の生命か--ロングフル・ライフ訴訟の定義から見えるもの」 

はじめに

 加藤論文は興味深い問いを提示し、さらに法的判断の恣意性・無根拠性という問題に切り込もうとしている。さらにその探求を、概念分析の社会学として行おうとしている。これらの点において、恣意的と批判されることの多いわいせつ物頒布の罪をめぐる裁判について、法のEM(エスノメソドロジーの立場から研究している私は、大きな刺激を受けた。

 しかし、いまひとつ論旨がつかめない部分があり、また同論文が行おうとしていることと概念分析の立場との関係についても気になる部分がある。以下引用ページ数は『概念分析の社会学2』のそれである。 

加藤論文の問い

 加藤論文の問いは、p. 1371-3「問い」)に示されている。

  ロングフル・ライフ訴訟における……「用語法」の変化、すなわち、「非嫡出子」による訴えが司法の領域から早々に退場を強いられたのに対し、「機能障害のある子」による訴えが同種の定義を構成するものとして採用され、裁判においても(限定つきではあれ)受け入れられるという違いは、どのような仕方で達成されてきたのだろうか。

 加藤は「そのような解答に至るひとつの道筋を見出すこと、それが本章の目標である」(p. 137)と少し曖昧な提示の仕方をしているものの、基本的には上記の問いに対して答えようとする論文として捉えて大きな問題はないと考えられる。

◆3つの問題

 本発表の加藤論文へのコメントは以下の3点に関わる。

  1. 問いと解答の関係。

  2. 問い-解答のペアと2-2の分析との関係。

  3. 法的判断の恣意性の指摘と、概念分析の立場との関係。

 以下では順番に論じていきたい。なお私は3に最も関心がある。

疑問1:問いに対してどのような解答が与えられたのか

 この疑問は意外あるいは不当なものに思われるかもしれない。確かに、取り上げられる各判決について、各訴えが退けられたり認められたりした理由は明確に書かれている。しかし、上記の問いに対する解答が明確に与えられているわけではない、という印象も同時に持った。この印象がどうして生じたのかについて考えてみたい。

判決理由と非嫡出子/機能障害の区別との関係の不明瞭さ

 加藤が示しているように、確かに諸判決は非嫡出子による訴えを認めなかったが、その理由は「非嫡出子であるから」ではなく、ロングフル・ライフ訴訟を認めた場合の社会的影響力への懸念*1(ゼペダ訴訟)や、存在と非存在との比較不可能性(ウィリアムズ対ニューヨーク州訴訟)であった。

 しかも、社会的影響力への懸念は、「機能障害を持つ子ならともかく、非嫡出子による訴えまで認めると社会的影響力が強すぎる」というものではなく、「遺伝病を持って生まれた」子や「望ましくない家系の特性を受け継いだ」子による訴訟の可能性をも含めて懸念を示すものだったという(p. 142)。ゼペダ訴訟判決の論理は、のちの裁判においてロングフル・ライフ訴訟が先天的な機能障害を不可欠の要素とするように限定されていったことの端緒を開いた、とは言い難いように思われる。実際に加藤も、ゼペダ訴訟判決の特殊性を指摘している(pp. 137-8

 また、比較不可能性テーゼは、非嫡出子・機能障害を持つ子いずれの訴えを否定する判決にも用いられていたという(3節)。そのため、比較不可能性テーゼを認めるか否かという問題と、機能障害だけをロングフル・ライフの要件として認めるか否かという問題が強く関連しているようには見えない。しかしp. 149では、存在と非存在との比較不可能性というアポリアを解決していないことが、「粗暴なやり方」と言われ、機能障害だけが要件となったことと関連しているように書かれており、疑問を覚える*2

非嫡出子であることのレリバンス

 いずれにしても、各判決理由を並べて「『非嫡出子』による訴えが退けられた理由」とされると、確かに正しいけれども、少し不適切に(少なくともミスリーディングに)思う。なぜなら、むしろ非嫡出子による訴訟の判決理由において、非嫡出子であることのレリバンスが強くあったわけではないことこそが、示されているように見えるからである。「Aというカテゴリーに属する人物の訴えが否定された」という主張の正しさと、「Aというカテゴリーに属する人物の訴えだから否定された」という主張は異なる。加藤論文が後者のような主張を非嫡出子について行おうとしているわけではないのかもしれないが、少なくとも問いの定式化の仕方、そして5節におけるまとめ方*3は、そのような方向性の読みを誘発しているように思われる。

◆疑問2:問いに答えるにあたって、分析(2-2)はどのような役割を果たしているのか

 続いて、分析が問い-解答のペアとどう関連しているかについて考えたい。疑問1で述べたことと大きく重なるので、簡潔に述べる。

 加藤論文の分析は面白いのだが、やはり前節で提示したような疑問が生じる。分析によって明確化されたゼペダ訴訟における行為記述のあり方は、ロングフル・ライフ訴訟が先天的な機能障害を不可欠の要素とするようになったことにどうつながったのか。存在と非存在の比較不可能性テーゼを認めるか否かと、先天的な機能障害を不可欠の要素とするようにロングフル・ライフ訴訟を限定するか否かは、そもそも関連していたのだろうか。

 もちろん、ゼペダ訴訟においてどのような行為記述がなされたのかという問いに答えることは、ゼペダ訴訟においていかにして訴えが退けられたのかという問いに答えることに、関連しているだろう。しかし、それらの問いに答えることが、論文全体の問いに答えることにとってどれだけの重要性や必然性を持っているのかは、十分に示されていないように思われる。ゼペダ訴訟だけを、しかも同判決における行為記述だけを分析しても、同論文で提示される大きな問いに答えることは難しいのではないか

◆疑問3:法的判断の恣意性の指摘と概念分析の関係は適切か

 加藤は5節で、カーレンダー対バイオサイエンス研究所訴訟などに対して、認められるべきロングフル・ライフ訴訟の要件を正当な根拠なく恣意的に先天性の機能障害に限定した、と厳しく批判する。なぜ非嫡出子であることの不利益は「危害」ではなく、先天性の機能障害は「危害」なのか。法的判断における区別の恣意性は重大な問題である。

法的判断の恣意性の問題視とEMの立場の両立可能性

 しかし、法的判断の恣意性を指摘・暴露・批判することと、EM(概念分析)の関係については、慎重に考えるべきではないだろうか。

 そもそも、法的判断の恣意性を暴露することは、多くの社会学や法学(法理学含む)の既存研究が行ってきた*4。もちろん、恣意性を問題視するという関心とEMの立場は、必ずしも矛盾しない。しかし、それらの既存研究とEMは立場を異にする部分があるだろう。

 私見では、EMが法的判断の恣意性という問題に取り組むにあたって他の立場と大きく異なっているのは、たとえ一見すると理不尽なものと思われる法的判断であっても、それが持つある程度の理解可能性にまずは注意を払い、その理解可能性を支える常識的知識や規範を分析し明らかにする点だ*5。そのうえで、それらの常識的知識の問題点ーーもしかするとそれらは偏見と言えるようなものかもしれないーーを議論し、当該の法的判断の恣意性を具体的に指摘することも可能であるだろう。恣意性の指摘とEMの立場を両立させるならば、このような仕方での分析が必要になると考えられる。

加藤論文の問いに答えるためにはどのような分析が必要なのか

 上記の概念分析の立場とは異なり、加藤論文では、ロングフル・ライフの訴えを認めた判決については、分析がないままに、それが無根拠だと批判されているように見える。

 もちろん、非嫡出子であることの不利益と機能障害であることの不利益を区別する根拠は、判決には明確に書かれていなかったかもしれない。しかし、書かれていないことは分析できないことを意味しないし、書かれていないからこそ分析が重要になるはずだ。ある正当化の理解可能性を支えるような、書かれていない前提や知識や規範を分析するのは、EM・概念分析が積極的に行うことだろう。そして、加藤論文の問題関心からして、これこそが分析されるべきだったのではないだろうか。

 確かに、非嫡出子であることの不利益よりも機能障害のある子に生まれたことの不利益が重大であり、法的に認められるべきだという区別は、その通りだと率直に認めるにはあまりにも居心地悪いものかもしれない。しかし、その区別は全く不可解だと言い切ることも、難しいように思われる。認めることに躊躇を感じる部分もありながらも、どこかもっともらしい部分が含まれている区別なのではないか。

 そうであるならば、その区別がもっともらしく聞こえるための前提となっている常識的知識や規範とはどのようなものかということこそが、分析されるべきだったのではないだろうか。非嫡出子の不利益と機能障害を持つ子の不利益が、その重大さにおいて区別されるという主張。加藤論文の問いに答えるための道筋は、認めることに躊躇を覚えるような主張の理解可能性を分析することによって開かれると私は考える*6 

概念分析の社会学2: 実践の社会的論理

概念分析の社会学2: 実践の社会的論理

実践の中のジェンダー?法システムの社会学的記述

実践の中のジェンダー?法システムの社会学的記述

責任と社会―不法行為責任の意味をめぐる争い

責任と社会―不法行為責任の意味をめぐる争い

*1:裁判官が、自らの決定によってもたらされると予期される社会的影響を考慮して判決を下すことは、それ自体学的探求の対象となってきた。社会学における例として、条件プログラム化による裁判官の責任・負担からの解放を指摘するルーマンの議論に示唆を受け、不法行為をめぐる訴訟の判決の論理を探求した常松淳『責任と社会』がある。

*2:ナビゲーション(p. 87)でも、両者の関係が加藤論文で示されたかのようにまとめられているように見える。

*3:特に「したがってそれは、一部の判決だけに帰せられるべき問題ではない」から始まる段落では、(ゼペダ訴訟以外の?)様々な判決がロングフル・ライフ訴訟を機能障害に限定する役割を果たしたかのように書かれている。

*4:批判法学運動もあったし、フェミニズムの立場からの批判も行われてきた。前者の例としてKairys David ed, The Politics of Law: A Progressive Critique、後者の例として野崎綾子『正義・家族・法の構造転換ーーリベラル・フェミニズムの再定位』など。

*5:たとえば小宮友根『実践の中のジェンダー--法システムの社会学的記述』では、加害者は睡眠導入剤を飲ませて性交したが、被害者は抗拒不能ではなかったとされ、準強姦罪が認められなかったという、要約を聞くと理不尽に思われる判決などの理解可能性が扱われている。

*6:補足的に、加藤論文の司法に対する要求や評価基準について述べる。p.149では、原告の苦しい境遇について「医師や特定の組織に補償を強いるべきことではなく、むしろ社会保障社会福祉の改善こそが急務なのではないか[下線引用者]とされ、「こうした問いに答えない限り、それら[ロングフル・ライフ訴訟の有効性を認めた諸判決]は先行する諸判決が真摯に取り組んだ難問を無視したと言わざるをえない」と批判される。ここでは、立法や行政ではなく、司法が社会福祉等の改善を行うべきだと主張しているのだろうか。あるいは裁判官が判決で社会保障社会福祉の改善が急務か否かを述べるべきだと主張しているのだろうか。いずれにせよ、かなり慎重に行うべき司法への要求だと思われる。また、法的論証の妥当性を、哲学・倫理学等の学的領域における論証の妥当性の基準のもとで判断することに、どのくらい意義があるのかも、難しい問題である。学的領域においては疑いうるような命題も、法的実践においては疑う必要がないこともある。司法の実践に対する批判は、学的か否かを問わず様々な立場から行われているし、容易にできてしまう部分がある。そのなかで、社会学や概念分析は司法の実践をどのように評価するのかを考えなければならないだろう。

Law in Action/ Max Travers and John F. Manzo eds

研究メモ

TraversとManzo編集のLaw in Actionを遅ればせながら読む。

Law in Action: Ethnomethodological and Conversation Analytic Approaches to Law (Socio-Legal Studies)

Law in Action: Ethnomethodological and Conversation Analytic Approaches to Law (Socio-Legal Studies)

'Ethnomethodology, Conversation Analysis, and the Sociology of Law', by John F. Manzo

PART I: EXEMPLARY STUDIES

'Introduction to Part I', Max Travers

2. 'Practical Sociological Reasoning: Some Features in the Work of the Los Angeles Suicide Prevention Center', Harold Garfinkel

3. 'The Lawyer's Work', Harvey Sacks

4. 'Contested Evidence in Courtroom Cross-Examination: The Case of a Trial for Rape', Paul Drew

5. 'The Presentation of Victim and Motive in Discourse: The Case of Police Interrogations and Interviews', Rod Watson

6. 'Preliminary Notes on Judges' Work: The Judge as a Constituent of Courtroom "Hearings"', Michael Lynch

PART II: CONTEMPORARY CONTRIBUTIONS

'Introduction to Part II', Max Travers

7. '"I'm sorry we had to meet under these circumstances": Verbal Artistry (and Wizardry) in the Kennedy Smith Rape Trial', Gregory Matoesian

8. 'Record-Keeping Practices in the Policing of Juveniles', Albert J. Meehan

9. 'Justice as a Phenomenon of Order: Notes on the Organization of a Jury Deliberation', Douglas W. Maynard and John F.Manzo

10. 'Remorse, Redress, and Reform: Blame-Taking in the Courtroom', Martha Komter

11. 'Practicing Law: A Study of Pedagogic Interchange in a Law School Classroom', Stacy Burns

 

最初とIntroを読んだらさっそくGarfinkelとSacksを飛ばすスタイルで、DrewとWatsonに移行。

Drew論文には有名な「彼はただ単に元気か尋ねただけ、しかしあなたにおやすみのキスをした。そういうことですか?」という弁護人の発話が出てくる。複数の行為記述の対立と、強い記述を用いるべきだというルールの関係。それを利用して弁護士は被害者証言の非一貫性の提示を行おうとする。

Watson論文は、加害者による被害者のカテゴリー化(niggers, faggots, black  sister)が、加害の動機の提示になっていることについて。これは法廷じゃなくてもありそうな推論の仕方に関する議論なので色々な人の参考になりそう。

第2部。 Maynard and Manzoは以前読んで面白かった記憶がある陪審員の議論の分析。どのくらいjustice概念が効いているのかは疑問もあった覚えもあるが。MatoesianとKomterはそれぞれ読んだことある単著の内容と近そうなのでパス。

KomterのDilemmas in the Courtroomは、法廷において被告人が、自己弁護と真実の発見への協力との間のジレンマや、後悔の念を示すことと減刑を求める姿勢を明確には見せないこととの間のジレンマにどう対処しているのかなどを分析している。

https://www.amazon.co.jp/Dilemmas-Courtroom-Netherlands-Everyday-Communication/dp/080582023X/ref=tmm_pap_swatch_0?_encoding=UTF8&qid=&sr=

Burnsはロースクールの授業における教授と学生のやりとりpedagogic interchangeを分析している。法に関する専門的知識だけではなく、法専門家としての振る舞いをどのように教え、学んでいくのか。明確な宛先はないが、権力概念の不要性についても最後に言及あり。

 

 

屈強な人たち

だいぶ昔に先輩のゼミ発表の最中に寝てしまったことを思い出した。後に他の先輩たちとこの私の振る舞いに関する話になったとき、一人が「君が入学する前の彼の一連の発表を聞いてないとわからない内容だったから仕方ないよ」といったフォローを入れてくれたのだが、これを認めると私は発表がつまらないと感じた場合には寝るというやや問題のある特性を備えた人間だということになってしまうのではないかという危惧が生じたので、素直に「あの日は教室が灼熱状態であり生命を脅かされるほど体力を削られたので睡眠に入らざるをえなかった」と弁明したものの、これは本当に素直に事情を述べたつもりだったのだが常日頃の真面目な態度が裏目に出たのか全く納得されず、さらに「他のゼミ参加者も同じ環境だが寝ていなかったではないか」という条件の統制に敏感な指摘を受けたので、普段の研究活動ではその片鱗も見せることができない卓越した論理的思考力によって私は結論(あるいは仮説)にたどり着いたのだが、どうもこのゼミの私以外の人たちは異常に屈強なのではないだろうか。