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メタフィクションの理解可能性とそれを予期した脚本の組織――映画『イングロリアス・バスターズ』の冒頭について

 ここでは、その映画を観た多くの人が簡単に気づくことについて、わざわざ書いていきたい。

 クエンティン・タランティーノ監督の『イングロリアス・バスターズ』の冒頭の場面は、非常に印象深い。Wikipediaからあらすじの一部を引っ張ってくると、以下のようなシーンだ。イングロリアス・バスターズ - Wikipedia

1941年、第二次世界大戦中のナチス・ドイツ占領下のフランスの田園地帯。この地に赴任した「ユダヤ・ハンター」の異名をとるナチス親衛隊のランダ大佐は、行方不明になっているユダヤ人一家の手がかりを得るために酪農家のラパディットを尋問する。

 重要なのは、ランダ大佐(クリストフ・ヴァルツ)の尋問を受ける酪農家ラパディットは、じつは床下にユダヤ人一家をかくまっているということだ。

 さて、彼らは英語ではなくフランス語で会話する。これはある意味では当たり前だが(ドイツ人とフランス人がフランスの田舎で会話しているわけだから)、別の意味では少々意外なことだ。というのも、アメリカ映画に出てくる各国の人々が、それぞれの母語ではなく英語で喋ることは、ままあるからだ。第二次大戦の映画を観て「なんでこのドイツ人は英語で喋っているのだろう」と懐疑することはなかなか難しいだろう。

 すると、ここで次のような会話が交わされる。

 ランダ「私のフランス語はこれが限界だ。これ以上話し続けるのは気が引ける。だがあなたは英語が得意なはずだ」

 ラパディット「はい」

 ランダ「偶然にも私もそうだ。あなたの許可を得てここから先は英語で話したい

 ラパディット「もちろん」

 さて、ここでのランダの発話(特に下線部)は、誰に向けられたものに聞こえるだろうか。もちろんラパディットに向けられてはいるが、これは極めて自然に、観客に向けられた発話に聞こえるはずだ。そのように聞こえる仕組みを分析するのは難しいが、たとえば以下のことがあげられるだろう。

 まず、ランダはものすごく流暢にフランス語を話していたにもかかわらず、いきなり自らの会話能力を低いものと述べ謙遜している。また、フランスの田舎に住む酪農家が実は英語が得意という設定も、非常に唐突に感じられる。そして先述したように、アメリカ映画に出てくるフランス人やドイツ人が英語で喋っても、必ずしも問題ないということを私たち観客は知っている。これはフィクションを鑑賞する際の一つのルールといえるかもしれない。最後に付け加えるならば、「あなたの許可を得て」がかなり直接的に観客と鑑賞のルールに言及している印象を与えるかもしれない。

 こうして私たちは、この発話が「作品がフィクションであること」に言及するものであること、いわばメタフィクション的な発話であることが理解できる。

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 ところが、観た人なら分かることだが、実はこれは単なるメタフィクション的な発話ではない。ランダはラパディットを追い詰め、ユダヤ人一家が床下のどこに隠れているかを話させる。そこでランダの以下のセリフだ。

 ランダ「彼らが騒ぎを起こさないということは、どうも英語がわからないようだな Since I haven't heard any disturbance, I assume, while they're listening, they don't speak English」

 このすぐ後にランダはフランス語に戻し、友好的な雰囲気を装いながら床下に弾丸を撃ち込む。すなわち、ランダが突如として英語で会話を始めることは、フィクションのストーリーの中でも「意味」を与えられている。英語で会話することによって、英語を解さない床下のユダヤ人一家が危機を察知し逃げることを妨害しているわけだ。

 そしてこのようなランダと脚本の戦略は、「ここからは英語で話したい」をメタフィクション的な発話として理解し、「フィクションだから第二次大戦期のフランスの田舎でドイツ人とフランス人が英語で話していることに特別な『意味』はない」としていた観客を興奮させるだろう。つまり、観客によるメタフィクション的理解を予期したうえで、それを裏切るような形で脚本が組織されているのだ。

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 「フィクションの鑑賞」について明らかにしようとすると、「世の中には様々な鑑賞者がいて、それぞれ知識や能力が異なるから、作品の理解も様々に異なっている」と考える向きもあるかもしれない。とはいえ、自然な理解、常識的な理解から出発して、それがどのような知識や能力によって可能になっているのかを明らかにすることができるだろう。また、「読者がどのくらい知識や能力を持っていて、作品をどう理解するか」という問題は、何よりも作者にとっての問題である。そのような問題に作者がいかにして対処しているか(わざと鑑賞者をミスリードすることも当然ある)に着目することも、興味深いように思われる。