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『概念分析の社会学2』加藤秀一論文について

2016/08/11本郷概念分析研究会『概念分析の社会学2』合評会レジュメ 

東京大学大学院 学際情報学府 岡沢亮 

◆対象論文

7章 加藤秀一「〈誤った生命〉とは誰の生命か--ロングフル・ライフ訴訟の定義から見えるもの」 

はじめに

 加藤論文は興味深い問いを提示し、さらに法的判断の恣意性・無根拠性という問題に切り込もうとしている。さらにその探求を、概念分析の社会学として行おうとしている。これらの点において、恣意的と批判されることの多いわいせつ物頒布の罪をめぐる裁判について、法のEM(エスノメソドロジーの立場から研究している私は、大きな刺激を受けた。

 しかし、いまひとつ論旨がつかめない部分があり、また同論文が行おうとしていることと概念分析の立場との関係についても気になる部分がある。以下引用ページ数は『概念分析の社会学2』のそれである。 

加藤論文の問い

 加藤論文の問いは、p. 1371-3「問い」)に示されている。

  ロングフル・ライフ訴訟における……「用語法」の変化、すなわち、「非嫡出子」による訴えが司法の領域から早々に退場を強いられたのに対し、「機能障害のある子」による訴えが同種の定義を構成するものとして採用され、裁判においても(限定つきではあれ)受け入れられるという違いは、どのような仕方で達成されてきたのだろうか。

 加藤は「そのような解答に至るひとつの道筋を見出すこと、それが本章の目標である」(p. 137)と少し曖昧な提示の仕方をしているものの、基本的には上記の問いに対して答えようとする論文として捉えて大きな問題はないと考えられる。

◆3つの問題

 本発表の加藤論文へのコメントは以下の3点に関わる。

  1. 問いと解答の関係。

  2. 問い-解答のペアと2-2の分析との関係。

  3. 法的判断の恣意性の指摘と、概念分析の立場との関係。

 以下では順番に論じていきたい。なお私は3に最も関心がある。

疑問1:問いに対してどのような解答が与えられたのか

 この疑問は意外あるいは不当なものに思われるかもしれない。確かに、取り上げられる各判決について、各訴えが退けられたり認められたりした理由は明確に書かれている。しかし、上記の問いに対する解答が明確に与えられているわけではない、という印象も同時に持った。この印象がどうして生じたのかについて考えてみたい。

判決理由と非嫡出子/機能障害の区別との関係の不明瞭さ

 加藤が示しているように、確かに諸判決は非嫡出子による訴えを認めなかったが、その理由は「非嫡出子であるから」ではなく、ロングフル・ライフ訴訟を認めた場合の社会的影響力への懸念*1(ゼペダ訴訟)や、存在と非存在との比較不可能性(ウィリアムズ対ニューヨーク州訴訟)であった。

 しかも、社会的影響力への懸念は、「機能障害を持つ子ならともかく、非嫡出子による訴えまで認めると社会的影響力が強すぎる」というものではなく、「遺伝病を持って生まれた」子や「望ましくない家系の特性を受け継いだ」子による訴訟の可能性をも含めて懸念を示すものだったという(p. 142)。ゼペダ訴訟判決の論理は、のちの裁判においてロングフル・ライフ訴訟が先天的な機能障害を不可欠の要素とするように限定されていったことの端緒を開いた、とは言い難いように思われる。実際に加藤も、ゼペダ訴訟判決の特殊性を指摘している(pp. 137-8

 また、比較不可能性テーゼは、非嫡出子・機能障害を持つ子いずれの訴えを否定する判決にも用いられていたという(3節)。そのため、比較不可能性テーゼを認めるか否かという問題と、機能障害だけをロングフル・ライフの要件として認めるか否かという問題が強く関連しているようには見えない。しかしp. 149では、存在と非存在との比較不可能性というアポリアを解決していないことが、「粗暴なやり方」と言われ、機能障害だけが要件となったことと関連しているように書かれており、疑問を覚える*2

非嫡出子であることのレリバンス

 いずれにしても、各判決理由を並べて「『非嫡出子』による訴えが退けられた理由」とされると、確かに正しいけれども、少し不適切に(少なくともミスリーディングに)思う。なぜなら、むしろ非嫡出子による訴訟の判決理由において、非嫡出子であることのレリバンスが強くあったわけではないことこそが、示されているように見えるからである。「Aというカテゴリーに属する人物の訴えが否定された」という主張の正しさと、「Aというカテゴリーに属する人物の訴えだから否定された」という主張は異なる。加藤論文が後者のような主張を非嫡出子について行おうとしているわけではないのかもしれないが、少なくとも問いの定式化の仕方、そして5節におけるまとめ方*3は、そのような方向性の読みを誘発しているように思われる。

◆疑問2:問いに答えるにあたって、分析(2-2)はどのような役割を果たしているのか

 続いて、分析が問い-解答のペアとどう関連しているかについて考えたい。疑問1で述べたことと大きく重なるので、簡潔に述べる。

 加藤論文の分析は面白いのだが、やはり前節で提示したような疑問が生じる。分析によって明確化されたゼペダ訴訟における行為記述のあり方は、ロングフル・ライフ訴訟が先天的な機能障害を不可欠の要素とするようになったことにどうつながったのか。存在と非存在の比較不可能性テーゼを認めるか否かと、先天的な機能障害を不可欠の要素とするようにロングフル・ライフ訴訟を限定するか否かは、そもそも関連していたのだろうか。

 もちろん、ゼペダ訴訟においてどのような行為記述がなされたのかという問いに答えることは、ゼペダ訴訟においていかにして訴えが退けられたのかという問いに答えることに、関連しているだろう。しかし、それらの問いに答えることが、論文全体の問いに答えることにとってどれだけの重要性や必然性を持っているのかは、十分に示されていないように思われる。ゼペダ訴訟だけを、しかも同判決における行為記述だけを分析しても、同論文で提示される大きな問いに答えることは難しいのではないか

◆疑問3:法的判断の恣意性の指摘と概念分析の関係は適切か

 加藤は5節で、カーレンダー対バイオサイエンス研究所訴訟などに対して、認められるべきロングフル・ライフ訴訟の要件を正当な根拠なく恣意的に先天性の機能障害に限定した、と厳しく批判する。なぜ非嫡出子であることの不利益は「危害」ではなく、先天性の機能障害は「危害」なのか。法的判断における区別の恣意性は重大な問題である。

法的判断の恣意性の問題視とEMの立場の両立可能性

 しかし、法的判断の恣意性を指摘・暴露・批判することと、EM(概念分析)の関係については、慎重に考えるべきではないだろうか。

 そもそも、法的判断の恣意性を暴露することは、多くの社会学や法学(法理学含む)の既存研究が行ってきた*4。もちろん、恣意性を問題視するという関心とEMの立場は、必ずしも矛盾しない。しかし、それらの既存研究とEMは立場を異にする部分があるだろう。

 私見では、EMが法的判断の恣意性という問題に取り組むにあたって他の立場と大きく異なっているのは、たとえ一見すると理不尽なものと思われる法的判断であっても、それが持つある程度の理解可能性にまずは注意を払い、その理解可能性を支える常識的知識や規範を分析し明らかにする点だ*5。そのうえで、それらの常識的知識の問題点ーーもしかするとそれらは偏見と言えるようなものかもしれないーーを議論し、当該の法的判断の恣意性を具体的に指摘することも可能であるだろう。恣意性の指摘とEMの立場を両立させるならば、このような仕方での分析が必要になると考えられる。

加藤論文の問いに答えるためにはどのような分析が必要なのか

 上記の概念分析の立場とは異なり、加藤論文では、ロングフル・ライフの訴えを認めた判決については、分析がないままに、それが無根拠だと批判されているように見える。

 もちろん、非嫡出子であることの不利益と機能障害であることの不利益を区別する根拠は、判決には明確に書かれていなかったかもしれない。しかし、書かれていないことは分析できないことを意味しないし、書かれていないからこそ分析が重要になるはずだ。ある正当化の理解可能性を支えるような、書かれていない前提や知識や規範を分析するのは、EM・概念分析が積極的に行うことだろう。そして、加藤論文の問題関心からして、これこそが分析されるべきだったのではないだろうか。

 確かに、非嫡出子であることの不利益よりも機能障害のある子に生まれたことの不利益が重大であり、法的に認められるべきだという区別は、その通りだと率直に認めるにはあまりにも居心地悪いものかもしれない。しかし、その区別は全く不可解だと言い切ることも、難しいように思われる。認めることに躊躇を感じる部分もありながらも、どこかもっともらしい部分が含まれている区別なのではないか。

 そうであるならば、その区別がもっともらしく聞こえるための前提となっている常識的知識や規範とはどのようなものかということこそが、分析されるべきだったのではないだろうか。非嫡出子の不利益と機能障害を持つ子の不利益が、その重大さにおいて区別されるという主張。加藤論文の問いに答えるための道筋は、認めることに躊躇を覚えるような主張の理解可能性を分析することによって開かれると私は考える*6 

概念分析の社会学2: 実践の社会的論理

概念分析の社会学2: 実践の社会的論理

実践の中のジェンダー?法システムの社会学的記述

実践の中のジェンダー?法システムの社会学的記述

責任と社会―不法行為責任の意味をめぐる争い

責任と社会―不法行為責任の意味をめぐる争い

*1:裁判官が、自らの決定によってもたらされると予期される社会的影響を考慮して判決を下すことは、それ自体学的探求の対象となってきた。社会学における例として、条件プログラム化による裁判官の責任・負担からの解放を指摘するルーマンの議論に示唆を受け、不法行為をめぐる訴訟の判決の論理を探求した常松淳『責任と社会』がある。

*2:ナビゲーション(p. 87)でも、両者の関係が加藤論文で示されたかのようにまとめられているように見える。

*3:特に「したがってそれは、一部の判決だけに帰せられるべき問題ではない」から始まる段落では、(ゼペダ訴訟以外の?)様々な判決がロングフル・ライフ訴訟を機能障害に限定する役割を果たしたかのように書かれている。

*4:批判法学運動もあったし、フェミニズムの立場からの批判も行われてきた。前者の例としてKairys David ed, The Politics of Law: A Progressive Critique、後者の例として野崎綾子『正義・家族・法の構造転換ーーリベラル・フェミニズムの再定位』など。

*5:たとえば小宮友根『実践の中のジェンダー--法システムの社会学的記述』では、加害者は睡眠導入剤を飲ませて性交したが、被害者は抗拒不能ではなかったとされ、準強姦罪が認められなかったという、要約を聞くと理不尽に思われる判決などの理解可能性が扱われている。

*6:補足的に、加藤論文の司法に対する要求や評価基準について述べる。p.149では、原告の苦しい境遇について「医師や特定の組織に補償を強いるべきことではなく、むしろ社会保障社会福祉の改善こそが急務なのではないか[下線引用者]とされ、「こうした問いに答えない限り、それら[ロングフル・ライフ訴訟の有効性を認めた諸判決]は先行する諸判決が真摯に取り組んだ難問を無視したと言わざるをえない」と批判される。ここでは、立法や行政ではなく、司法が社会福祉等の改善を行うべきだと主張しているのだろうか。あるいは裁判官が判決で社会保障社会福祉の改善が急務か否かを述べるべきだと主張しているのだろうか。いずれにせよ、かなり慎重に行うべき司法への要求だと思われる。また、法的論証の妥当性を、哲学・倫理学等の学的領域における論証の妥当性の基準のもとで判断することに、どのくらい意義があるのかも、難しい問題である。学的領域においては疑いうるような命題も、法的実践においては疑う必要がないこともある。司法の実践に対する批判は、学的か否かを問わず様々な立場から行われているし、容易にできてしまう部分がある。そのなかで、社会学や概念分析は司法の実践をどのように評価するのかを考えなければならないだろう。